紙一重hypocrite

しあわせをひろってつなげていきていく

メロウ




周知の事実なのかもしれないけれど、

最近よく思うのは


現実主義の人は現実主義に

ならざるを得なかった


のではないかということ。

自分で言うのもなんだけど、

自分自身現実主義だとは思う。


それを掘り返すと

現実に向き合って、対峙し、考えることが

あったからだな、と。

そして理想とは違う、現実を知ったからだと


極論だけれど

現実主義者はなにか

辛い経験があるように感じる


夢見がちでは生きて来れないなにかがあったと。


でもそれは何も悲しいことじゃない


現実を生きているのに

現実を見ないのは馬鹿過ぎる。


辛い経験こそ人を成長させる。

ある人が


『楽しかった出来事は”楽しい”という

感情しか残らない。詳細は忘れてしまう。

でも辛い記憶はいつまでも覚えている。

そして楽しい記憶大概誰かと

共有しているけれど、

辛い記憶は自分一人だけのもの』


と言っていた。

前者が悪いわけではない。

楽しい記憶や感情が起動しなければ

それはアンドロイドのようになる。


辛い記憶は自分一人だけのもの、

というのが重要で、

自分一人だから抱え込み、試行錯誤し、

思慮を巡らせる。

そこに意味がある。


それが所謂人の厚みや、濃さを産む。


人それぞれ悩みがある

比べるものじゃない、

なんて言うけれど


悩みの規模は当然存在し

一般的にみて小さな悩みと

毎晩声を押し殺してなくような悩みを

一緒にするのは失礼であり、

偽善だと思う。


世の中みんな悩みがあるとはいえ、

本当に大したことない悩みだったり

大した辛い経験じゃない人がいる。


そういう人は本当に勿体無いと、

そんなことを考えている。




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